一枚のマッチラベルから<後編>

一枚のマッチラベルから<後編>

こんにちは。

前回記事のPV数が驚くほど伸びず、焦りぎみのパチンコライター栄華です。

 

生きているうちに評価されるのは無理なのかもしれない。伸び悩む原因を自分の内に見つけることを放棄して企画の後編をお届けします。自明のことですが、後編と言うからには前編がございます。ここまでの流れを把握しないとこの先の内容が頭に入ってこない恐れがあるので宜しければご一読ください(断じてPV数稼ぎではありません)。⇒前編

 

ここまでのあらすじ

前編を読みたくない、もしくは読んでもよく分からなかったという方のために、前編で推測できたことや判明したことを箇条書きにしておきます。

 

<今回のお題となるマッチ>

  • 昭和31年ごろに作られたマッチらしい。
  • パチンコ店「丸玉」経営をしていた丸玉観光株式会社が、1953年(昭和9)に京都の四条寺町に「アイスパレス」という巨大なスケートリンクを建設した。
  • アイスパレスの中には「喫茶・グリル333」という店があったらしい?
  • アイスパレスの近隣に「グランドパチンコ丸玉」「ベビーマルタマ」というパチンコ店があったらしい? 
  • 「アイスパレス」はのちに映画館「パレス劇場」となった。
  • 丸玉観光株式会社の創業者木下彌三郎は「奔馬の一生」という自伝を残している。

 

 

木下彌三郎という実業家

後編は、丸玉観光株式会社の創業者・木下彌三郎の著書「奔馬の一生」を主に参照しながらマッチラベルを読み解いて行きます。

 

木下彌三郎は1894年(明治27)、滋賀県神崎郡能登川町(現在の東近江市)に生まれました。誕生した年に日清戦争、10歳の時に日露戦争が勃発。富国強兵が推し進められる時勢の中で「どえらい人間になったる」という野心を抱き、小学校卒業後に「えらくなりたい一心」で、就職ではなく進学の道を選びます。 地元の商業学校に入学し「近江商人としての心構えを叩きこまれた」そうです。

 

当初は「弁護士から代議士になる」という人生の青写真を描いていましたが、 司法試験に合格できずにいるうちに、親戚の勧めで呉服商を手伝うようになります。1916年(大正5)、22歳の時に「呉服太物洋反物商 神崎屋呉服店」の店主になりました。

 

商人として堅実なスタートを切ったように見えますが、この呉服店は長く続きません。彌三郎が自らの意志で「製パン業」へと転身したからです。呉服店はそれなりの業績を上げていましたが、「小規模な呉服店はこの先百貨店に押される」と時代の流れを読んでの決断です。

 

「奔馬の一生」が出版されたのは1976年。彌三郎82歳の年ですが、神崎呉服店をオープンした1916年から60年の間になんと「50以上の事業を起こした」と振り返っています。大正~昭和20年代までに手がけた事業を一部書き出してみましょう。

 


 

1921年(大正10)製パン業:大日本製パン工業会の立ち上げに関わり、理事を務める。「日本のパンを世界的水準まで育てたのは私だ」と自負。

 

1932年(昭和7)キャバレー:大阪・道頓堀に「キャバレー・マルタマ」を開業。定額料金制を取り入れた初のキャバレーとして大成功。「マルタマ少女歌劇団」の舞台が人気を博すも、大阪の花柳界やOSK(大阪松竹歌劇団)と対立。

 

1933年(昭和8)映画製作:まだ無声映画が主流だった時代にオールトーキーの映画作品「ホロリ涙の一ト雫」を製作。マルタマ少女歌劇団やキャバレーのホステスたちを女優として起用。映画館に上映料を踏み倒されるなどして大赤字。

 

1934年(昭和9)雑誌発行:「活字文化が根付いていなかった」という当時の関西で雑誌「近代人」を創刊。第二次世界大戦の用紙統制により廃刊。

 

1937~1945年 戦地慰問:日中戦争、第二次世界大戦中は、中国をはじめフィリピン、インドネシアで皇軍慰問を目的に10ヶ所以上のキャバレーをオープン。巨万の富を得るが、戦後に連合国に全店舗接収されほぼ無一文に。

 

1945年(昭和20)百貨店:戦後、家財道具を売り払ってお金にかえるため、京都・四条に「観光百貨丸玉」をオープン。手形詐欺にあって大借金を背負う。

 

1949年(昭和24)飲食店:喫茶・グリル333(スリースリー)をオープン。

 

1952年(昭和27)アルサロ:全国初のアルバイト・サロンを開業して大繁盛。瞬く間に同じ業態の店が増え、過当競争となったため撤退。

 

 

マルタマ少女歌劇団

 


 

いやあ、すごいですね。この年表を見る限り、時代の潮目を読む能力にすごく長けた人物です。ただ、どの事業でもエポックメイキング的な実績を上げているように見えるのに、「木下彌三郎」の名前はあまり世に知られていません。先見の明があり何をやっても成功するけれど、大胆なチャレンジの裏には失策も多く、特定の業界でドンと呼ばれるような存在になるといった権力欲・名声欲は薄い方だったように見受けられます。

 

 

パチンコ業界とのかかわり

そんな彌三郎が、昭和27年に目を付けたのがパチンコでした。

 

先ほどの年表の1945年を見て下さい。京都四条に「観光百貨丸玉」をオープンしたとありますが、ほどなく撤退してしまいます。「四条に髙島屋が出店する」ことを知ったからです。その代わりに乗り出したのがパチンコ店経営でした。

 

ひらめいたのはパチンコであった。(中略)これを京都の目抜き、四条通りのど真ん中に、ひとつの企業として育てようとしたのである。(中略)名古屋の大手メーカーから最新式の機械を四百台仕入れて、二階は椅子席、一階は立ち席の本格的パチンコ店としてオープンしたのである。(中略)勢いに乗って、京都は寺町と四条小橋にもパチンコ店をオープンさせ、二ヶ月後にはさらに大阪道頓堀にさらに大型のパチンコ・マルタマを開店した。

 

昭和27年に400台規模のホールはかなり珍しかったと思います。彌三郎も「私の店が日本でも最初ではなかったろうか」と振り返っています。

 

この1号店こそが、くだんのマッチラベルにある「グランドパチンコ丸玉」であると考えられます。自伝には「四条通りのど真ん中」としか書かれていませんが、「御旅町」はまさに四条のど真ん中であり、しかも髙島屋の真向かいなので、ここで百貨店を営む気になれなかったのも納得できます。

 

どんなホールだったのか外観を見てみましょう。

 

今回の調査に大きなヒントを与えてくれた書籍の中に、いき出版の「写真アルバム 京都の昭和」(2016年)があります。上の写真は、本が出版された時に京都市内で行われた写真展の様子を偶然撮っていたものです。左のパネルに気になるモノが写り込んでいます。

 

パネルと同じ写真が掲載されたチラシ

 

拡大してみると「パチンコ丸玉」という文字が読み取れます。そしてキャプションに「京都市電四条河原町新京極停留所」とあり、写っている場所が御旅町で間違いないことが確認できます(あとで地図を載せます)。

 

そしてもう1軒。「パチンコ界の寵児・ベビーマルタマ」についてです。「四条小橋東詰角」とは「橋の東側の角」という意味なので、通りを挟んで南北ふたつの角が存在することになります。どっちの角やねん? って話です。

これはちょっと調べただけで特定できました。北側の角には2010年12月まで「不二家京都店」があったからです。次の記事には1934年(昭和9)から76年間営業したと記されています。

 

●烏丸経済新聞:「不二家 四条店」で最後のクリスマスケーキ販売 https://karasuma.keizai.biz/headline/1260/

 

不二家は北側にあったので、ベビーマルタマは南側の角ということになります。アイスパレスも含めて位置関係を確認するとこんな感じです。

 

 

 

現在の四条小橋東詰。不二家はマツキヨに。ベビーマルタマの跡地には飲食店のビルが

 

彌三郎はその後、全日遊連(全日本遊技事業協同組合連合会=パチンコホールの全国組織)の前身である全遊連(全国遊技業組合連合会)の会長に就任。昭和41年に全遊協(全国遊技業協同組合連合会)が結成されるまで「パチンコ屋の親分に祭り上げられた」と記しています。全遊連の終盤には三店方式の実現に向けて尽力したそうです。

 

 

ところで、先ほどの引用に <大阪の道頓堀に「パチンコ・マルタマ」を開店した>という一節がありますが、これは年表の1932年にある「キャバレー・マルタマ」の跡地です。このホールのマッチラベルが私のコレクションの中にありました。

 

「東洋一」「香水冷房」「PATINKO」など時代が薫る表現が満載

 

 

マルタマは2006年まで道頓堀で営業。その後は丸玉観光の手を離れたものの、2016年まで別グループがパチンコ店を経営していました。

 

2015年のGoogleストリートビュー

 

 

 

「喫茶・グリル333」のこと

次はアイスパレス内にあったと思われる「喫茶・グリル333(スリースリー)」について調べてみましょう。

 

アイスパレスは1953年に開業したことが分かっています。しかし「日本観光史」というサイトに「333」は1951年開業と記されており、さらに「奔馬の一生」には1949年開業と書かれていたのです。正確な情報を得るため、日本観光史の作成者が参照したという「丸玉観光㈱75周年記念誌」を手に入れたいところでしたが、残念ながら発見することができませんでした。

 

ただハッキリしているのは、1949年であれ1951年であれ、アイスパレスが開業する以前から「333」が存在したらしいということです。

 

何か資料がないかと写真集系の書物を見直していたところ、前述の「写真アルバム 京都の昭和」の中にあっと驚く写真を見つけました。四条通を西から東に高所から撮影したもので、その中に喫茶・グリル333がはっきり写っていたのです。

 

転載できないので絵にしましたがドヘタすぎて伝わらないなあ

 

とにかくですね、この写真には「昭和28年撮影」とキャプションが付けられておりまして、もともと「333」は四条通りの丸玉の並び(西側)にあったことがわかったのです。

 

となると、マッチラベルにある「アイスパレス階上」の333は支店だったのでしょうか。もしくはアイスパレス内に移転したんでしょうかね。

 

「奔馬の一生」ではアイスパレス内の333について一切触れられておらず、パレス内のテナントについては歌声ホールとジャズ喫茶にのみ言及しています。

 

また前編では、333台設置のパチンコ店がパレス内に併設されていたのでは? という可能性に触れましたが、裏付ける資料はありませんでした。

 

アイスパレスは、当時日本スケート連盟の会長だった竹田恒徳氏から「今後は世界的な興行としてアイスショーが全盛になるから、ショーを上演できるスケート場を建設して下さい」と提案されて事業に踏み切ったもので、「海水浴場が近くにないから」という理由で京都の地が選ばれました。

 

スケート場の課題は夏季の来客。遠くの海より近くのスケート場で避暑をしようと考える客が見込めるのではないかと考えましたが、狙いは大ハズレ。冬の間は満員御礼だったものの、夏には閑古鳥が鳴く状態に。早くも開業の翌年にスケートリンクの面積を縮小して映画館へと移行することになりました。自伝には「スケート場から映画館に変わり、さらに駐車場に変貌したあと、結局、河原町に乗り入れてきた阪急に全てを委譲した」と書かれています。

 

国土地理院とGoogleの航空写真を年代ごとに比較できるアプリで作成した画像。1970年代前半、髙島屋の増築に伴ってパレスは姿を消しました。

 

その後の丸玉観光

マッチラベルに記された店舗についての謎解きはだいたい終わりましたがもう少し補足。丸玉観光がその名を知られている事業といえば「ホテル経営」です。パチンコホール1号店のグランドパチンコ丸玉の跡地ものちにホテルになりました。最も有名なのが滋賀・琵琶湖畔にあった「ホテル紅葉」です。昭和40~50年代に関西に住んだことがある方なら、これらのCMを必ず見たことがあるのではないでしょうか。

 


 

 

紅葉パラダイス」「ホテル紅葉」の企業がパチンコホールも経営していたなんて知らなかった、という方もいらっしゃると思います。実は私も知りませんでした。マッチラベルについて調べなければずっと知らないままだったかもしれません。

 

木下彌三郎は1987年に93歳で永眠。その後は子、孫に経営が受け継がれましたが2006年に負債130億円で特別清算開始となりました。

 

今年4月の末には、丸玉観光が経営していた様々な施設の中で倒産前の名前が残っていた「京都セントラルイン」(=グランドパチンコ丸玉跡)も閉業となりました。

 

 

 

「奔馬の一生」が出版された翌年(1977年)、彌三郎は滋賀県に「木下美術館」という私設美術館を設立しています。倒産とともに美術館もなくなってしまっただろうと思い込んでいましたが、ホームページを探したところ、現在も大津市比叡平で営業していることがわかりました。蒐集した美術品を展示するほか、絵画教室を開いたり、地域の自治会が開催するイベントに参加しているそうです。コロナウイルス感染拡大防止のため4月23日から休館していましたが5月14日に再開したとのことなので、自粛要請が解けたら必ず足を運ぼうと思っています。

 

木下美術館HP

https://www.kinoshita-museum.com/

 

 

「奔馬の一生」の中で彌三郎は、京都市東山区の「大谷本廟」に自らの墓を買ったと記しています。大谷本廟は浄土真宗の開祖・親鸞の墓所です。最後にいきなり自分語りになって恐縮なのですが、実は2000年に他界した私の父の骨もここに納められています

 

お彼岸や命日に、拝堂の前で手を合わせて目を閉じると、大谷本廟内に納骨されているお仲間と父が楽しそうに話している姿が眼裏に浮かんで来ます。私が来たことに気付くとおしゃべりをやめて「おー、来たの」と懐かしい笑顔を向けてくれます。もしかすると、父のおしゃべり仲間の中に彌三郎氏もいらっしゃったりして……などという空想を膨らませてしまいました。今後は父に手を合わせるとき、同時に彌三郎氏のことも思い出すでしょう。

 

 

<参考文献>

「奔馬の一生」木下彌三郎 出帆社 1976年

「建築文化第93号」東京彰国社 1954年

「83年の歩み さよなら京都市電」京都市交通局 毎日新聞ニュースサービス社 1978年

「全国遊技場名鑑西日本編」2005年版 遊技産業協会

「京都今昔写真集」樹林舎 2008年

「昭和の京都」光村推古書院 2010年

「京都写真館 なつかしの昭和20年から40年代」白幡洋三郎監修 淡交社 2010年

「写真アルバム京都の昭和」いき出版 2016年

「マッチ・ラベル1950-70sグラフィックス」小野隆弘 グラフィック社 2019年

「開封・戦後日本の印刷広告 『プレスアルト』同梱広告傑作選<1949-1977>」竹内幸絵編 創元社 2020年

 

 

ライター紹介:栄華

パチンコライター。全国2500ヶ所以上のパチンコ店を探訪し写真撮影を行うほか、パチンコ書籍やパチンコ玩具等の蒐集など周辺文化の探究に軸足を置いた活動を行う。パチテレ!「パチってる場合ですよ!」「パチンコロックンロールDX」レギュラー。パチンコ必勝ガイドにて「栄華の旅がたり」連載中。著著「八画文化会館VOL.7 ~I ♡ PACHINKO HALL パチンコホールが大好き!!~」が好評発売中。 偏愛パチンコバンド「テンゴ」で作詞とボーカルを担当。