こんにちは。偏愛パチンコライターの栄華です。
このサイトは、栃木県と東京都でパチンコホール「BBステーション」を経営する株式会社大善の「採用サイト」でございます。
さて前回は、BBステーションの創業店舗「東京駅」の写真を見ながら、撮影された時期=閉店時期の特定を試みました。
↑これは社員の方々と一緒に「東京駅」の跡地を訪ねたときの写真ですが、この時皆さんが仰っていた「あること」が、私はとても気になっていました。
「昔は近くにたくさんのパチンコ店があった」
というお話です。「東京駅」から見渡せる範囲だけでも数軒あったといいます。
しかし……。
今の佐野駅前を見てもそのイメージが全く湧かないのです。
現在、両毛線佐野駅から最寄りのパチンコ店は、「BBステーション佐野店」。Googleマップによると徒歩最短ルートで約1.6㎞の位置にあります(次点が1.8㎞、次次点が2.1㎞)。
徒歩約20分を「駅チカ」とは言い難いですので、「現在、佐野駅の近くには1軒もパチンコ店がない」と言ってよいでしょう。
しかし調べてみると、過去には皆さんがおっしゃる通り、駅から500m圏内(徒歩約5~6分以内)に、たくさんのホールが存在していたことがわかりました。
後編では、地図資料や漫画作品を参照しながら、1970年に「東京駅」が創業してから今日までの50年間、佐野駅周辺にどんなホールが存在し、移り変わって行ったかを見てゆきます。
まずは1970年代から
佐野駅の開業は1888(明治21)年。手始めに「駅前に初のパチンコ店ができたのはいつか」を突き止めてみようと思いましたが、調べきれずに断念しました。
と言うのも、今回の主たる資料は「ゼンリン住宅地図」だからです。現在は日本中の市町村の地図が販売されていますが、佐野市版が刊行され始めたのはどうやら1970年なのです。また、前編で紹介したパチンコホールのデータベース「全国遊技場名鑑」も1968年からしか作られておらず、パチンコ店の色々なルーツを調べる作業は一朝一夕にゆかないことを思い知らされました(いつものことですが)。
気を取り直してまず2020年の地図上に「佐野駅周辺パチンコ店マップ・1970年版」を作ってみました。緑色の旗マークがパチンコホールのあった場所です。
1970年と現在では、道幅などが変わったので多少ズレはあると思いますが、けっこう正確にマーキングできたと思います。ちょっと見づらいので書き出しますね。
①東京駅(佐野駅ホームからの直線距離:約65m)
②富士会館(約90m)
③リボン(約155m)
④楽天地(約240m)
⑤アカダマ(約250m)
⑥国際ホール(約260m)
立地はすべて駅の南~南西で、東側、北側にパチンコ店はありませんでした。
1970年当時、駅の南側にはものすごい数の店舗がひしめいていました。その稠密感を下の地図を使って説明しますと、赤枠内の小さな区画に2軒のパチンコホールがあったほか、洋装デパート、食堂、寿司屋、喫茶店、呑み屋、靴店、時計店、書店、カメラ店、八百屋、肉屋、旅館などなど、50店舗がぎっしり軒を連ねていたのです。
続いて、1976年。
70年にあった6店舗は変わりなく、最大の変化は『国際ホール』の南に現れたニューフェースです。
⑦ニコニコボール(佐野駅ホームからの直線距離:約400m)
なんという可愛いらしい店名。おそらくこの時期が「駅から500m圏内」に最もパチンコ店が多かった時期だと思われます。
漫画作品に描かれた1980年代の佐野駅前
時系列に地図を紹介するだけではつまらないので、ここで面白い資料を紹介します。
「198Xメモリーズ~あの頃の俺たちに捧ぐ~」第2巻 井上和郎 小学館(2019年)
という漫画作品です。
作者の井上和郎先生は栃木県佐野市出身で1972年生まれ。この作品は、作者が多感な時期を過ごした1980年代を描く「実話系青春日記」で、小学館の青年漫画誌「コロコロアニキ」に2017年~2019年まで掲載されました(全2巻完結)。
第2巻の「メモリー11」のエピソードが「脱衣パチンコ」という香ばしいタイトルで、ストーリーの冒頭にこんなシーンが描かれます。
なんと、「東京駅」です!
中学2年生の登場人物たちは、当時話題だった『雀々物語』というパチンコ台を打つために「東京駅」を訪れるのです。
『雀々物語』が、平和の『麻雀物語』であることは作中に描かれた盤面を見て明らかなのですが、パチンコ史に詳しい方ならご存知のとおり、発売は1991年です。実話系と言えど創作なので、この辺りは作品の世界観に合わせて変えたのでしょうね……。
少年たちが『雀々物語』を打ちたかったのには大きな理由がありました。大当り終了後の液晶画面に映し出される女性の「乳首らしきもの」を見るためです(この「らしきもの」の存在も本家『麻雀物語』と合致しています)。
しかし、学生服姿で「東京駅」に入った少年たちは店員に怒られてしまいます。
1980年代だと前編で写真を提供してくださったベテランスタッフの金子さんはまだお勤めではなかった頃ですが、ひょっとするとのちにパチンコが打てる年齢になった作者とホールで遭遇していたかも? なんて想像しました。
さて、追い出されてしまった少年たち。懲りずに近隣のパチンコ店へ片っ端からアタックします。
●リボン
●赤玉
●楽天地
●国体パチンコ
③リボン、⑤アカダマ、⑥楽天地と、実際にあったパチンコ店が次々に登場してワクワクします。「国体パチンコ」だけ実在しなかった店名ですが、作品中に「殿町通りにあった」と書かれており、どうやら「国際ホール」がモデルになっているようです。
ところで、作中にホールの外観が描かれているのを見て「すごい! 当時の写真を見ながら描いたのかしら!」と思わずガン見したレトロホールマニアの方もいらっしゃると思います。「東京駅」が忠実に描かれているだけに他のホールも期待しちゃいますよね。しかし、「楽天地」は四国地方に実在する廃ホールと瓜二つですし、「国体パチンコ」は茨城県北西部にある廃ホールとほぼ同じ外観です。
著述業と違い、ビジュアルを描かなければならない漫画家さんの大変なところですね。記憶の中のホール像に近い資料写真を選んでお描きになったんだろうな……と想像しました。
果たして少年たちは念願の「乳首らしきもの」を見ることができたのか。結末が気になる方は、単行本をお買い求めになってはいかがでしょう。
1990年代~現在
「198Xメモリーズ」に描かれた1980年代、そして前編で紹介した Lyle Hiroshi Saxonさんの動画を見ても、1990年代前半あたりはまだ昔ながらの商店街の風景が残り、パチンコ店も営業していたことが見て取れます。
これは2020年の地図上に、1993年にパチンコ店があった場所をマーキングしたものです。
富士会館は「シスコ」という店名になり、楽天地・アカダマは閉業。「ニコニコボール」はこの2店よりもっと早く閉店していたようです。
そして4年後の97年のデータでは「シスコ」と「リボン」も姿を消し、「東京駅」と「国際」のみになっていました。その翌年には「東京駅」も閉店します。最後まで残った「国際」も、私が閲覧できる全国遊技場名鑑では2005年版に掲載されているのが最後で、2008年版では名前が消えています。
また遊技場名鑑をもとに1993年、1997年、2005年のデータを見比べたところ、店舗数は減少しているものの大型店化が進んでいるのがよく分かります。
佐野市のウェブサイトに、区画整理事業の必要性について書かれたこのような文がありました。
農地や荒れ地が点在し、入り組んだ、狭く、曲がりくねって、見とおしの悪い道路に家がバラバラに建っているような、また、公園や広場といった子供が安心して遊べる場所もないような地域は、このまま放置しておくと、道路や公園も整備されないまま、家が無秩序に建ち並び、生活環境の良くないまちができてしまうことが予想されまます。 ―佐野市ウェブサイトより
佐野駅前の景色を一変させた都市計画・市街地開発事業。快適になったはずの駅周辺では人口減少と高齢化が進み、商店は廃れて通勤・通学以外の目的で駅前を訪れる人はごく少数になってしまいました。駅前よりも、駅から1~2km離れた地域で人口が増加するという中心街の空洞化が見られ、それに伴ってパチンコ店の立地も移り変わってゆきます。
2011年には東日本大震災が起こり、耐震強度が足りない建物(旧佐野市庁舎など)が取り壊されたことで古い町の姿はいっそう失われました。
避けられない変化だったことはよくわかるんです。でも私は、今回この記事を書くにあたって様々な資料で見た、昭和~平成初期の佐野駅前の活気にどうしようもなく惹かれてしまいます。それらは今と全く違う美しさに満ちていました。
その面影を、もう見ることはできないのでしょうか。
ホール跡地を訪ねてみる
8月下旬。私はふたたび佐野市を訪れました。佐野市立図書館で調べものをして、1970年代の住宅地図を手に町を歩いてみようと思ったのです。
まず、「東京駅」の最寄り、「富士会館(のちにシスコ)」の跡地は現在コンビニエンスストアに。
続いて「リボン」。駅前通りは特に昔の面影が薄れて、土地勘のない者には「どこらへん」だったか特定するのも難しかったです。
木に隠れた茶色い建物の右(北側)あたりかな?
「リボン」の近くで、1970年代から今も営業しているお店。メガネの東京堂さん(南隣)と松葉食堂さん(駅前通りをはさんで北東)。
次は駅から最も遠い「ニコニコボール」。右側の5階建ての建物が跡地です。
当時は2階建てで、1階がパチンコ店、2階が「セブンスター」というキャバレーでした。1970年には「大川屋」という別な店舗(業種不明)があった場所にホールとキャバレーができたようです。この界隈も商店がぎっしりで、東隣は薬局、北隣は書店でした。
そして、2000年代まで生き残った「国際」の跡地。
自信がないから広めに写真を撮ってますが、あとで2000年代の地図とも見比べた結果、どうやら右の青い建物の位置のようでした。
これがラスト。向かい合って建っていた「楽天地」と「アカダマ」です。楽天地の跡地には予備校が建っています。そしてアカダマは、なんとなんと、建物が残存しているのです。
この一角には古い建物が残っていて、右側に並ぶ瓦屋根は、お米屋さん、酒屋さん、履物店でした。
外壁に看板の文字の跡でも残っていないかと目を凝らしましたが読み取れず……。現在建物は、音楽好きが集うダイニングバーとして賑わっているようです。今回は時間がありませんでしたが、また仕事で佐野に行く機会があれば絶対に入ってみたいと思います。パチンコ店の跡をほんの少しでも見つけたい!
さいごに
こういった街歩きは、Googleのストリートビューを使ってもある程度できてしまうのですが、現地へ行くとまぎれもない「今」を受け取ることができます。どんなに小さくてもいにしえの痕跡を探し出そうとアンテナを研ぎ澄ます時間はとても得がたいものでした。過去には、往来に人々があふれ、町の活気が住民の生活を支え、文化や娯楽が花咲き、たくさんの思い出が紡がれた時代が確かにあったのです。
そういった時代の残り香を再確認し、記録に残す作業を私は「パチンコ店」を軸にしてこれからも続けます。ただ、生きているうちに全ての町々を訪ね切れるとは到底思えないので、賛同して頂ける方は一緒に活動してください。それぞれお住まいの地域で、まずは古い地図を探して町を歩かれてみてはいかがでしょう。想うこと、記録すること、そして伝えること。それがいかに必要かを改めて実感しました。
はじまりは「東京駅」。大善さん、ありがとうございました。
<参考文献>
「佐野市史・民俗編」 佐野市史編纂委員会 1975年
「佐野市史・通史編 下巻」佐野市史編纂委員会 1979年
「都市と遊技場」杉村暢二 大明堂 1996年
「足利・佐野の昭和」 いき出版 2014年
「ゼンリン住宅地図 佐野市」1970年~2000年
「全国遊技場名鑑・東日本編」娯楽産業協会
「198Xメモリーズ~あの頃の俺たちに捧ぐ~」第2巻 井上和郎 小学館 2019年
※スペシャルサンクス:クレイジーまったり社長さん
ライター紹介:栄華Twitterリンク変更用
パチンコライター。全国2500ヶ所以上のパチンコ店を探訪し写真撮影を行うほか、パチンコ書籍やパチンコ玩具等の蒐集など周辺文化の探究に軸足を置いた活動を行う。パチテレ!「パチってる場合ですよ!」「パチンコロックンロールDX」レギュラー。パチンコ必勝ガイドにて「栄華の旅がたり」連載中。著著「八画文化会館VOL.7 ~I ♡ PACHINKO HALL パチンコホールが大好き!!~」が好評発売中。 偏愛パチンコバンド「テンゴ」で作詞とボーカルを担当。