栃木県南西部。新興住宅街の一画にその家はあった。真新しい門扉に掛けられたセラミックタイルの表札には「三浦」の名字と、その下に「太陽」「さち」の名前が並べて掘られている。埼玉の住宅設備会社に勤務する夫が起床するのは午前6時。目覚ましが鳴るより寸刻早く起きた彼はダブルベッドの隣で眠る妻を起こさぬように、そっとアラームを解除した。下階に降りて顔を洗い、歯を磨く。音量を絞ったテレビで朝のニュースを仕入れながら、昨晩の残り物をレンジで温めて朝食を済ます。
小さくても庭付きの家がいい。子供が出来たらブランコをおくの。中学生になったらバスケットのゴール。みんなが家を出たら木を植えて、毎年成長を見守りながら過ごしましょう。
新婚当時に聞いた妻の希望通りにしつらえた庭には、未だブランコの姿はない。サッシを開ける。芝生とアスファルト。夏の匂いがした。門扉に蝉が一匹止まっていて、ジジジと小さく鳴いている。パジャマ姿のままサンダルを履いて、庭先でタバコを吸った。妻が既に起きてるのはなんとなく気配で分かっていた。庭先から二階を見上げる。引っ越し当時は、よくこうやってタバコを吸う自分を、妻が二階から見下ろして微笑んでいた。今、その窓には分厚い遮光カーテンが引かれている。
薄暗い部屋。下階から聞こえる物音。ベッドに突っ伏しながら、妻はただ時間が過ぎるのを待っていた。たっぷり三十分そうしているとようやく玄関の扉が開く音がして、それからガレージの方からエンジン音が響いてきた。頭の中でゆっくり十数えて上半身を起こす。やっと開放された気がした。トイレと洗面を済ませてキッチンに向かう。綺麗に片付けられた食器が並んでいるのを見て、舌打ちしたい気分になった。
2時間ほどテレビを見て過ごす。何を着ていこうか少し迷ったけども、面倒になって結局昨日と同じシャツを選んだ。さらにシャツを着たあとシャワーを浴びるべきか少し考えたが、どうせ帰宅したらまた浴びるのだからとその考えも打ち消した。メイクも要らない。意味がない。
ガレージの軽自動車に乗り込んで県道を走る。裏道を飛ばして20分ほどで、目的の場所に到着した。時刻は午前十時少し前。朱色の建物の前に広がる駐車場には、既に五台ほどの先客がいて、その車の数と同じ人数が店舗の入り口に屯していた。
「いらっしゃいませ。お客様」
オープンと同時に出迎えてくれたのは、膝丈の黒いタイトスカートにブラウス。そしてベストにネクタイ、メガネの下の薄いメイクに微笑みを湛えたいつもの女性店員だった。順番通りに入店する常連に都度頭を垂れ、話しかけている。すぐに自分の番が回ってきた。
「いらっしゃいませ、三浦様。いつもありがとうございます」
「……こんにちは」
「今日もごゆっくりお楽しみください」
「……ええ」
僅かに会釈をしたまま、目を伏せてさっと入店する。さちは何度かこの女性店員と会話をしたことがあった。ネームプレートに刻まれた名字はたしか「阿久」だった。いつも澄ました顔で、背筋を伸ばして立っている。彼女はさちが勝つ度。あるいは負ける度に声を掛けてきていて、そしてさちにはそれが、たまらなく鬱陶しかった。なぜこんなに気に触るのか自分でも理解出来ずに困惑した時期もあったが、それすらも今ではどうでも良くなってきている。
エントランスを抜けて、機械が並ぶホールに足を踏み入れる。BGMが鼓膜を揺らした。嗅ぎ慣れたワックスの香り。芳香剤。メダルや、玉や、機械の匂い。さちはようやく生き返った気持ちになった。
機械を見ながら通路を歩く。視線を左右に巡らす。海物語。牙狼。花の慶次。どれも楽しそうだったけども、今日はそれよりもパチスロの気分だった。通路を抜けて絨毯が敷かれた薄暗いエリアへと進む。新台から順にラインナップとデータを確認して、やがて一台の機械に落ち着いた。『マイジャグラーIV』だった。椅子に腰掛け、バッグから財布を取り出す。札入れには一万円札が五枚入っていた。まずはそのうちの一枚をコインサンドに投入する。
さちは無心で打った。
ただメダルを入れ、レバーを叩き、ボタンを押す。時折大当たりが来た時だけ何となく楽しい気持ちになったが、ただそれだけだった。特に楽しくもなく。かといってつまらなくもない。しかしさちにとっては、それだけでも素晴らしい事に思えた。何せ日常に付随するあらゆることが、彼女にとってはつまらない事にすぎなかったのだから。
お昼過ぎに、ずっと空いていた隣の席にお客が座ってきた。ごま塩頭の初老の男性だ。上等なサマージャケットは如何にも高そうで、リタイヤ直後のどこかのお偉いさんに見えた。さちの視線に気づくと、男性は照れたように会釈をしてきた。恐らく常連なのだろう。もしかしたらホールで何度か顔を合わせているのかもしれない。やがてその男性の隣に、もうひとりお客が着座した。サマージャケットの男性と同じくらいの年齢の、おとなしそうな中年女性だった。夫婦だろうか。そう思うとなんだか生臭くて頭痛がしそうだった。席を移動するべきか一瞬迷ったが、さちはそれもまた面倒に思えた。
「伊藤さん! 古馬さん! いらっしゃいませ!」
すぐ後ろの通路から声がして、さちは思わず舌打ちしそうになった。見ると、先日からたまに見かけるようになった新人店員が、満面の笑みを浮かべながらお辞儀している。
「やあ、菅原さん! 先日はどうも──!」
「こちらこそ! ご迷惑をおかけしちゃって。でも楽しかったですね。……へへ!」
「あら。どうしたのよ二人して。わたしに内緒の話?」
「いやぁ! よし江ちゃん。そんなことはないよ。ただ私らは二人で……ねぇ?」
「おっと! おぉっと! 駄目ですよ伊藤さん。まだ内緒! 内緒です! へへ……!」
「えー、なによもう。気になるじゃない!」
「大丈夫です大丈夫。すぐ分かりますから。すぐに──!」
本格的に頭痛がしてきた。何なんだろうこのウザい常連と面倒なスタッフは。いま打ってる分のメダルが飲まれた移動しよう。さちが心に決めたあと、さらに面倒な状況になった。
「おう! 伊藤屋! よし江ちゃんも。ペカってっかい?」
「あら、ゾエさんじゃない。おはよう」
「おはようございます、エゾエさん」
「おう。ポン。元気かよ。ちゃんと仕事してっか?」
半分ハゲかけたアロハの客はハーフパンツのポケットに手を突っ込んだまま、肩をイカらせていた。どこかで聞き覚えのある声だ。すぐに気づいてゲンナリした。この男はこっちに引っ越して来た当時によく通っていた、パティスリー・エゾエというケーキ屋の人間に違いなかった。思わず顔を伏せたが時既に遅し。
「あれ。アンタ……もしかして──」
無視した。
「ンまあ、いいか──……。おう、それよりよ。よし江ちゃん。ペカったらすぐにこのゾエさんに言いなよ。飛んできて揃えてやっからよ。オイラこっちで打ってるから」
「おっとォ! エゾエさん。それには及びませんよ。もう大丈夫なんですよねぇそれが」
「ン。なんだよポン……。あ! おめぇ最近目押し出来るようになったとか言ってたなオイ。さてはオメェが揃えるってか?」
「へへ。違うんですよねぇそれが。へへへ。まあぼくの口からはこれ以上……ねぇ!」
「なんだよおめぇ気持ちわりぃなぁ……。まあいいけどよ別に」
早く飲まれろ。早く飲まれてしまえ。祈るような気持ちで打っていると、ランプが光った。全く嬉しくない当たりだった。その場の視線がこちらに集中するのが分かった。無視して1BETボタンを押して最速で揃える。
「わあ、お嬢さん、目押しお上手ですねぇ……!」
サマージャケットの言葉に、曖昧に頷いた。これがBIGだったら持ちメダルを持って移動する所だったが、さちの目の前で揃ったのはREGだった。持ちメダルと合わせたとしても、移動するには余りに微妙な枚数だった。
(なんで他がガラガラなのに私の周りだけ……)
口の中だけで悪態を吐きながら消化していると、さらに人が増えた。
「あ。菅原ちゃんだ。おはよう」
「アゲハさん! それにカメさんも。おはようございます。今日はお二人でジャグラーですか? 珍しいですね!」
「そうなのよ。カメちゃんがね。今日はジャグラーの日だっていうから」
「ジャグラーの日なんてあるんですか、カメさん。え、なんですか? 夢に? 道化師が出てきた……? 道化師って、ああピエロか。なるほどなぁ! へへ!」
「カメちゃん信心深いからねェ!」
年齢不詳のケバい女性と体毛がない和服の老人は、あろうことか空いていたさちの右隣に着座した。強烈な香水の匂い。わずかに線香の匂いもする。強い匂いが苦手なさちにとっては苦痛以外の何でもなかったが、それよりもド常連に囲まれているこの状況そのものが異常すぎた。
アゲハ。カメ。エゾエ。伊藤に、古馬。
無心で打つさちの頭に、それらの固有名詞がさざなみのように浸透して、まず浮かんだのが「このスタッフはなんでそんなに常連の名前を覚えているのだろう」という疑問だった。なんでそんなに他人に興味があるんだろう。私だったら無理だ。覚えたくもないし、覚えない。次に常連に対しても疑問が湧いた。菅原さん。菅原くん。菅原ちゃん。ポン。ポンちゃん。口々にスタッフに話しかけている。これも私だったら無理だ。話しかけたくもないし、名前なんか興味がない。
不意に、メガネの美人店員の言葉が降ってきた。
(いらっしゃいませ、三浦様。いつもありがとうございます)
不快感。呼ばれたくない。知られたくない。構わないで欲しい。タバコの煙が残る静かな庭。植木も、芝生もない空白の一画。ブランコ。下腹部を貫く不妊治療の痛み──。さちは思わず手を止めた。そうか。気づいてみれば簡単なことだった。
私は三浦という名字で呼ばれたくなかったんだ。
思わず両手を下げてリールを見つめる。キラキラ輝く図柄は、まるで今までの結婚生活を振り返る走馬灯のように感じられた。
ガコッ。音がした。横目で見ると、古馬と呼ばれた中年女性のランプがペカっている。通路を挟んで後ろに座るエゾエが振り返って立ち上がろうとするのを、菅原が制した。全員の目が、その動きを、口元を追いかけていた。視線をずらす。通路の向こう。ずっと遠くに阿久が。あの女が居た。白い肌に、いつもの優しい笑みを浮かべている。
「──伊藤さん。出番です。さあ! 今こそ修行の成果を……!」
菅原の言葉を受けて立ち上がる伊藤。通路の奥の阿久が満足そうに頷くのを、さちの目は見逃さなかった。
続く
※この物語はフィクションです。実在の団体・法人・ホールとは一切関係ありません。
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浅草在住フリーライター。主にパチスロメディアにおいてパチスロの話が全然出てこない記事を執筆する。好きな機種は「エコトーフ」「スーパーリノ」「爆釣」。元々全然違う業界のライターだったが2011年頃に何となく始めたブログ「5スロで稼げるか?」が少しだけ流行ったのをきっかけにパチスロ業界の隅っこでライティングを始める。パチ7「インタビューウィズスロッター」ななプレス「業界人コラム」ナナテイ「めおと舟」を連載中。40歳既婚者。愛猫ピノコを膝に乗せてこの瞬間も何かしら執筆中。