パーラー・スマイル~優しい悪魔がいるホール~ 第三十話

パーラー・スマイル~優しい悪魔がいるホール~ 第三十話

「もう、遅くなっちゃったじゃない」
「悪かったよ……。何度も謝ったじゃないか」
「ハァ……。信じられない」

 

ハンドルを握る太陽が何度も頭を下げる。助手席で腕を組んで怒ったふりをしながら内心では必死に笑いを堪えていた。このあとの展開が簡単に想像できたし、第一、夫の急な仕事で休日の予定が狂う程度では、さちは腹を立てたりしない。

 

「あーあ。この時間はもう映画は間に合わないわ……」
「いや、ギリギリで間に合いそうだから、急ぐよ」
「だめ。安全第一で運転してよ。保険屋さんのあなたが事故を起こしたら洒落になりません」
「でも映画が……」
「はあ……。もう諦めましょ。また次に観に行けばいいわ」
「……ごめんよさち。久しぶりのデートだったのに」
「いいのよ。……ねぇ、代わりに何だけども、行かない?」
「……どこに?」

 

さちは車の中で親指を素振りする仕草をする。バカバカしくてつい口元がほころんでしまった。それを見て、太陽も思わず吹き出す。

 

「オーケー。パチスロだね。分かってる。僕が悪いんだから、今日はとことん付き合わせてもらうさ。……パーラースマイルでいいかい?」
「うん。確か今日新台入替えのはずだから、ちょっと設定入れてるんじゃないかしら」

言いながら、さちはエアコンの風を弱めてパワーウィンドウを下げた。生暖かい、湿気った空気が頬に潤いを与える。どこかで野焼きでもしているか、枯れ葉が焼ける匂いがした。北関東の、夏の匂いだ。

「さち、あんまり開けないでくれよ。蝉が飛び込んできたら大変だ」
「入って来ないわよ。だいじょ──。え、なにこれ?」

 

道沿いに並ぶ街路樹と標識、そして街灯が、左右に揺れているのが分かった。太陽がポンピングを効かせて車を減速させる。

 

「地震だね。結構デカい。……停めるよ?」
「ええ。っと! うわ、びっくりした!」

 

スマホからけたたましいアラームが響く。緊急地震速報。強い揺れが来ます。

 

「もう来てるわよ……。ほんと意味ないわねこれ」
「これほんと大きいよ……震度5はあるね」
「車の中だから大きく感じるんじゃない? サスペンションでホラ……」
「ううん。逆なんだよ。車の中の方が小さく感じるんだ。車内でコレッて事は……」

 

太陽がナビのコンパネを操作して車内のステレオ入力をラジオに切り替える。

 

(速報です。只今入りました情報によりますと、現在関東を中心に強い揺れが観測されています。詳しい情報が入り次第……失礼しました、続報です。現在観測されている強い揺れですが──)

 

「うそ、震度5強って──結構大きくない?」
「大きいよ……。ああ、ごめんさち。パチスロもダメだ」

 

未だ細かく揺れる車内で、太陽がスマホを助手席に向けてきた。会社からの呼び出しらしい。サンズ・アライアンス。太陽が役員を勤める損害保険代理店である。さちの見ている前で、スマホのディスプレイには次々とメールやラインの着信通知が表示される。

 

「大丈夫よ。いってらっしゃい、あなた」
「すまない」
「馬鹿ね。別にあなたのせいじゃないわよ。……ほら、急いで行かなきゃ。わたしはここでいいから」
「いや、家まで送るよ」
「ううん。大丈夫。わたしはもう、あなたの邪魔になりたくないのよ」
「……さち。ありがとう」
「ふふ。そんな顔しないの。どうせ暫く会社にお泊りでしょ? なにか必要なものがあったら連絡なさいね。持っていってあげるから」

 

車を降り、歩道でテールランプを見送る。さちと太陽の車の他にも路肩に駐車した車はぽつぽついたが、みんな揺れが収まるとゆっくりと動き始めていた。さて、と伸びを作る。見上げると、突き抜けるように青い空が広がっていた。突然の天変地異に困惑してなりを潜めていた蝉の声が再び響く。夏真っ盛りだ。

日焼け対策にカーディガンを羽織り、日傘を開く。「よし」と気合を入れるように頬を叩いて、元来た道を一歩一歩辿り始める。幸いハイヒールは履いていないし、日焼け止めのクリームも車内で塗ったばかりだ。猛暑とはいえ10分ほど歩けば駅なので、そこでタクシーを拾えばいいし、それくらいなら徒歩で移動できる。むしろ運動不足の解消にちょうどいいかもしれない。

と、気楽な感じで歩き初めて、3分で後悔した。

 

「何この暑さ……。反則でしょう……」

 

照りつける陽光に舌打ちしながら進む。これは流石に無理。もう携帯電話でタクシーを呼ぼうと決意した辺りで、目の前の路肩に停められたミニバンから、一人の若い女性が飛び出すようにして降りてくるのが分かった。車内の男が何か言っている。

 

「大丈夫だって! おい! 待てよ! ……クソ!」

 

運転席側から身を乗り出すようにして手をのばす男。その手を振り払って、女がさちが向かってるのと同じ方向に駆け出す。ピンヒールだ。何事かと見守るさちの前で、ミニバンは逆方向に走り去ってしまった。すれ違う瞬間、半開きのウィンドウから、運転席の男が「勝手にしろ、馬鹿女!」と悪態を吐くのが聞こえた。

 

「……口悪ゥ。なに今の男」

 

さちの前を走る女。取り乱しているらしく、無我夢中と言った感じだった。やがてヒールが側溝の上蓋にハマり、盛大にコケる。うそでしょ。さちは口に手を当てて、それから小走りで女に近づいた。

 

「ちょっと、あなた大丈夫? どうしたのよ」
「放っといて……! 行かなきゃ……早く……赤ちゃんが……」
「……赤ちゃん?」
「ッ! 痛い……!」
「今度は何よ……。うわぁ……」

 

見ると、転倒した拍子に怪我をしたらしく、女は左足の膝小僧辺りから出血していた。まさかと思って確認すると、やっぱりヒールも折れていた。

 

「足首はどう? 捻ってない?」
「……痛い」
「でしょうね……。タクシー呼ぶから、ちょっと待って」

 

いつも使っているタクシー会社に電話すると、「ただいま通話が混み合っています」というアナウンスと共に強制的に通話が打ち切られた。まさかと思ってスマホのブラウザから鉄道情報にアクセスすると、近隣の線は軒並み運行中止になっていた。

蝉の声。照りつける太陽。じんわりと、背中が冷たくなる気がした。

 

「赤ちゃんって……。あなた、どこに行こうとしてるの?」
「分からない……。車の中に、赤ちゃんが……」
「……ちょっと待って。車の中……?」

 

嫌な予感がした。車内放置児童。炎天下の中、車の中に放置された児童の死亡事故が、日本中の商業施設で起きている事はさちも知っていた。

 

「あなた今、赤ちゃんを車の中にひとりで置いてるのね?」

 

何も言わずに頷く女。瞬間、頭の中が茹で上がったような気分になった。それが最初はなんだか分からなかったが、どうやら激しい怒りである事に気づいて、さちは目眩のような感覚を覚えた。赤ちゃん。連想ゲームのように不妊治療の痛みが思い出され、幻痛になって下腹部を襲う。今すぐにでもこの女を引っ叩きたい欲求に駆られたが何とか堪え、気持ちを落ち着けるために奥歯を噛み締めた。

 

「場所は? どこなの?」
「分からない……」
「なんで分からないのよ」
「彼の車の後ろをついていっただけだから、初めて行くところだったし……。この辺詳しくないし……。ねぇどうしよう……。エアコン付けてきたけど、今の地震で、止まってるかもしれない……わたしどうしたら……」
「おちついて。いい? わたしの目を見て答えて。男の車についていって、どこかに自分の車を停めたのね?」
「はい……」
「コンビニ? デパート? パチンコ屋さん?」
「パチンコ屋さん……」
「ッ!? パチンコ屋さんなのね? 名前は? 分かる?」

 

首を振る女。さちは歩道に突っ伏すように倒れる女の横に屈み込んで、もう一度聞いた。

 

「名前が分からないなら……。なにか覚えてる事はない? 周りにどんなお店があったかとか……。外観の特徴とか……」
「……赤」

 

女が、顔を上げてまっすぐにさちの目を見ていた。縋るような、半泣きの視線だった。さちは敢えて厳しい表情のまま、その肩を揺すった。

 

「赤? 赤いお店? 赤かったのね」
「はい。赤いお店……向こうの方の……」

 

女が指差す進行方向。赤いお店。フンと鼻を鳴らしそうになった。なんだ、こんなのイージー過ぎてクイズにもならない。わたしを誰だと思っている。元・依存症だぞと、なんだか胸を反らしたい気分になった。

 

「分かったわ。パーラースマイルね。大丈夫」
「え……? 大丈夫って、何が……」

 

さちは日傘を折りたたんで、そしてカーディガンを脱ぐとその場でうずくまる女に手渡した。2度ほど屈伸して、ハンドバッグの持ち手に右手を通す。

 

「いい? あなたの赤ちゃんがいるお店は『パーラースマイル』。この辺のパチンコ好きには『スマイル』で通じるわ。連れて行ってあげたいけど、今のあなたを連れていくと時間がかかっちゃうから、わたしが先に行く」
「あの、タクシーは……」
「今タクシーは捕まらない。私鉄もJRも全部止まってるの。バスは動いてるかもしれないけど、バス停はここからずっと先。いい? ここから5分くらい進むと国道に面したT字路に出るわ。そこを右に行ってしばらく進むと法人タクシーの営業所があるから、そこで給油に戻った車を捕まえなさい」

 

深呼吸する。血液を体中に巡らす。

 

「日傘を差して、カーディガンも羽織るといいわ。なんせ」

全力で走り出しながら、さちは言った。

「北関東の日差しは強いからね!」

 

 

 

 

続く

 

 

※この物語はフィクションです。実在の団体・法人・ホールとは一切関係ありません。

 

人物紹介:あしの

浅草在住フリーライター。主にパチスロメディアにおいてパチスロの話が全然出てこない記事を執筆する。好きな機種は「エコトーフ」「スーパーリノ」「爆釣」。元々全然違う業界のライターだったが2011年頃に何となく始めたブログ「5スロで稼げるか?」が少しだけ流行ったのをきっかけにパチスロ業界の隅っこでライティングを始める。パチ7「インタビューウィズスロッター」ななプレス「業界人コラム」ナナテイ「めおと舟」を連載中。40歳既婚者。愛猫ピノコを膝に乗せてこの瞬間も何かしら執筆中。